元東燃(現ENEOS)社長で、金融政策の論客として日銀審議委員も務めた中原伸之(なかはら・のぶゆき)氏が11月1日に東京都内の病院で死去したことが9日、分かった。86歳だった。東京都出身。 1957年に東大経済学部を卒業し、米ハーバード大学大学院で学び、59年に東亜燃料工業(その後、東燃に社名変更)に入社。86年社長に就任した。当時の大株主で高配当を求めた米メジャー(国際石油資本)のエクソン、モービルに対し、利益の内部留保を重視する立場から抵抗。94年に東燃社長を事実上解任された。経営権や配当政策に関する日米企業の認識の違いを鮮明にしたケースとして、注目を浴びた。 98年から2002年まで日銀審議委員を務め、早期のデフレ脱却に向けたインフレ目標の採用を強く主張。速水優総裁(当時)の下で日銀が行った量的緩和政策の導入を主導した。写真は12年撮影 【時事通信社】
2021.12.07
人物・歴史
【追悼】2021 (27/209)
元東燃(現ENEOS)社長で、金融政策の論客として日銀審議委員も務めた中原伸之(なかはら・のぶゆき)氏が11月1日に東京都内の病院で死去したことが9日、分かった。86歳だった。東京都出身。 1957年に東大経済学部を卒業し、米ハーバード大学大学院で学び、59年に東亜燃料工業(その後、東燃に社名変更)に入社。86年社長に就任した。当時の大株主で高配当を求めた米メジャー(国際石油資本)のエクソン、モービルに対し、利益の内部留保を重視する立場から抵抗。94年に東燃社長を事実上解任された。経営権や配当政策に関する日米企業の認識の違いを鮮明にしたケースとして、注目を浴びた。 98年から2002年まで日銀審議委員を務め、早期のデフレ脱却に向けたインフレ目標の採用を強く主張。速水優総裁(当時)の下で日銀が行った量的緩和政策の導入を主導した。写真は12年撮影 【時事通信社】