【追悼】2020 (174/186)

プロ野球の南海(現ソフトバンク)で三冠王も獲得した強打の名捕手として活躍し、ヤクルトを3回日本一に導くなど名監督でもあった野村克也(のむら・かつや)さんが2月11日午前3時30分、虚血性心不全のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。 京都府網野町(現京丹後市)出身。府立峰山高からテスト生として1954年に南海へ入団し、確実性と長打力を兼備した強打者になった。57年に初タイトルの本塁打王を獲得。65年には戦後初の三冠王になった。 捕手としても打者の癖や性格を観察して配球に生かすなど才能を発揮し、64〜66年のパ・リーグ3連覇や日本一2回など南海の黄金期を支えた。70〜77年は監督兼任で、73年にリーグ優勝。 77年に南海監督を解任されたが、「生涯一捕手」と語ってロッテ、西武で現役を続行。45歳で引退するまで3017試合出場のプロ野球記録(当時)をつくった。現役通算2901安打、打率2割7分7厘、657本塁打、1988打点。本塁打王9回、首位打者1回、打点王7回。 90年にヤクルト監督となり、データ重視の「ID野球」を掲げ、古田敦也らを育てて92年リーグ優勝、93年には西武を倒して日本一になった。95、97年にも日本一。 99〜2001年阪神監督。06年に楽天監督となり、09年には球団創設後最高の2位に躍進させ、退任した。監督通算1565勝1563敗76分けで勝利数は歴代5位。卓越した野球理論で多くの選手を育てた。89年野球殿堂入り。02年から05年までは社会人のシダックスで監督を務め、03年の都市対抗大会で準優勝に導いた。 「ノムさん」と親しまれ、講演や解説では「ぼやき」と呼ばれた辛口の批評や数々の名言を織り交ぜて野球論を語った。巨人の長嶋茂雄、王貞治と自らを比較して「僕は人の見ていない所にひっそりと咲く月見草みたいなもの」と話すなど、現役時代から数々の語録を残した。著書多数。沙知代夫人(17年死去)とそろってのタレント活動も話題になった。写真は05年撮影 【時事通信社】