1994年 与那嶺要 1925年に米ハワイ州マウイ島で生まれた日系2世。アメリカンフットボールから野球に転向し、マイナーリーグを経て、51年のシーズン途中に巨人へ外野手として入団。巧みな打撃と米国仕込みの果敢な走塁でファンを魅了した。2年目から6年連続打率3割以上をマーク。54年に3割6分1厘で首位打者となり、56、57年も首位打者。57年は最優秀選手(MVP)にも選ばれた。61年に中日へ移籍し、翌年引退した。通算1219試合で3割1分1厘、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁。 「ウォーリー」の愛称で親しまれ、引退後は中日、東京(のちロッテ)などのコーチを経て72年から6年間中日監督。74年には巨人の10連覇を阻止し、20年ぶりのリーグ優勝に導いた。その後も巨人、南海などでコーチを歴任。88年まで38年間もユニホームを着続けた。写真は中日監督時代の71年撮影 【時事通信社】
2024.01.24
スポーツ
【野球】野球殿堂に入った名選手 (61/87)
1994年 与那嶺要 1925年に米ハワイ州マウイ島で生まれた日系2世。アメリカンフットボールから野球に転向し、マイナーリーグを経て、51年のシーズン途中に巨人へ外野手として入団。巧みな打撃と米国仕込みの果敢な走塁でファンを魅了した。2年目から6年連続打率3割以上をマーク。54年に3割6分1厘で首位打者となり、56、57年も首位打者。57年は最優秀選手(MVP)にも選ばれた。61年に中日へ移籍し、翌年引退した。通算1219試合で3割1分1厘、1337安打、82本塁打、482打点、163盗塁。 「ウォーリー」の愛称で親しまれ、引退後は中日、東京(のちロッテ)などのコーチを経て72年から6年間中日監督。74年には巨人の10連覇を阻止し、20年ぶりのリーグ優勝に導いた。その後も巨人、南海などでコーチを歴任。88年まで38年間もユニホームを着続けた。写真は中日監督時代の71年撮影 【時事通信社】