2021.08.24 09:31Nation

「人生の窓が開いた」 バリアフリーに驚き―64年出場選手ら〔パラリンピック〕

 障害のあるアスリートが競い合うパラリンピック。前回の東京大会が開かれた1964年は、障害者が外出することも珍しい時代だった。車いす対応の選手村や海外選手の振る舞いに当時の選手らは驚き、「パラのおかげで人生の窓が開いた」という。
 高知県安芸市のNPO役員近藤秀夫さん(86)は、16歳の時に炭鉱事故で負傷。車いす生活となり、大分県内の障害者施設に入った。
 スポーツと言えば施設にあった和弓(わきゅう)ぐらいだったが、「日本パラリンピックの父」と呼ばれる医師の故中村裕さんに誘われ、パラアーチェリーなどへの出場が決まった。
 ワゴン車や飛行機を使って上京したが、車いすでは利用できなかった。「おんぶしてもらわないといけなかった。本音では嫌だった」と苦笑する。
 大会では「撃った矢がどこに飛んだか分からない」ような結果だったが、選手村での生活は驚きの連続だった。車いすのまま乗れるバスやスロープ、洋式トイレがあり、「街がこういう形なら僕らは施設を出られるのに」との思いを強くした。
 通訳派遣会社「バイリンガル・グループ」(東京都新宿区)社長の郷農彬子さん(78)は、パラの通訳ボランティア「語学奉仕団」の一員だった。
 当時は「障害者を見てはいけない、見たら相手に悪いと思っていた」。ただ、選手村の交流スペース担当になり、会話や歌を楽しむ海外選手と触れ合ううち、「みんな自分に自信を持っている。臆することはない」と考えを改めた。
 「パラのおかげで人生の窓が開いた」という近藤さんは、その後東京都町田市職員になり、建築物のバリアフリー化に取り組んだ。郷農さんも車いすバスケ大会で通訳を受け持つなど、障害者スポーツとの関わりは続く。
 パラリンピックの自国開催は57年ぶり。この間、障害者を取り巻く環境は大きく変わったが、共生社会の実現は道半ばだ。近藤さんは「障害があることはマイナスではなく、高度な表現もできることを知ってもらえたら」と話した。(2021/08/24-09:31)

2021.08.24 09:31Nation

1964 Paralympics Inspired People toward Inclusive Society


The 1964 Tokyo Paralympic Games offered Japanese people with disabilities a glimpse of an inclusive world, with one athlete saying that the event "opened a window in life."
   Hideo Kondo, 86, a board member of a nonprofit organization of Aki, Kochi Prefecture, western Japan, was 16 when he was injured in an accident at a coal mine, leading him to live in a wheelchair at a facility in Oita Prefecture, southwestern Japan.
   Kondo, who took up Japanese archery at the facility, was invited to compete in the 1964 Games' archery event by Yutaka Nakamura, who is considered the father of Japan's sports movement for disabled people.
   Kondo used a station wagon and an airplane to travel to Tokyo for the event, but he could not use a wheelchair in them.
   "I had to be picked up and carried," he said. "To be honest, I didn't like it."

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