2024-11-15 09:27

激動の1世紀生き抜く=三笠宮さま支え、最期に涙―孫、ひ孫の成長見守り・百合子さま

 明治以降の皇室で最高齢だった三笠宮妃百合子さまが101歳で亡くなられた。18歳で皇室に入り、戦中、戦後と激動の時代を生き抜いた。3人のお子さまを亡くし、夫の三笠宮さまにも先立たれたが、笑顔を絶やさず、温かいまなざしで孫やひ孫の成長を見守り続けた。
 ◇防空壕で新婚生活
 1923年、子爵・高木正得氏の次女として誕生した。高木家は旧河内丹南藩の藩主家で、母の邦子さんの実家である入江家は歌道の家柄。皇室入りのきっかけは、女子学習院本科卒業を控えた41年1月末、貞明皇后が住む当時の大宮御所で催された映画会だった。母の邦子さんらと参加し、三笠宮さまも鑑賞。2日後に結婚が決まり、「青天のへきれきのごとく、降って湧いたようなこと」と、三笠宮さまの伝記(2022年12月刊行)に収録された「オーラルヒストリー」で語っている。
 新婚時代、太平洋戦争が生活に暗い影を落とした。45年5月、空襲で「青山東御殿」と呼ばれた当時の宮邸が全焼。コンクリート製の防空壕(ごう)で、三笠宮さま、1歳になったばかりの長女近衛※子さん(※ウカンムリに心、その下に用)(80)と暮らした。
 45年8月14日には、宮家の防空壕に戦争継続を訴える陸軍の若手将校が訪れ、戦争終結を望む三笠宮さまと激論になった。「今にもピストルが飛び交うかと思うような緊迫したことで」「すごい怖い雰囲気であったことを覚えております」とオーラルヒストリーで振り返っている。
 ◇夜に写したノート
 軍人として戦争の悲惨さを目の当たりにした三笠宮さまは戦後、歴史学者としての道を歩み、研究生として東京大に通った。公務で大学に行けなかった時、友人から借りたノートを百合子さまが写した。「夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう」。三笠宮さまは11年、結婚70年の所感でこう記した。
 百合子さまは48年4月、恩賜財団母子愛育会総裁に就任。同総裁職は62年間務めた。この年の7月、百合子さまに不幸が襲った。父正得氏が遺書を残して失踪し、同年11月、奥多摩の山中で遺体で見つかった。
 親王妃としての公務の傍ら、子育てに奮闘し、5人の子全員の育児日誌を記した。「やはり乳人(めのと)という制度が適当なのかと、危うくくじけそうになる」。51年、雑誌に寄稿した日誌には、育児の苦労など、生活感あふれる日々の暮らしがつづられている。57年には「ゆかり」の名で、三笠宮さまと句集「初雪」を出版した。
 戦後は56年のセイロン(現スリランカ)をはじめ、三笠宮さまの外国訪問に同伴。トルコは3回訪れ、友好親善に寄与した。結婚70年の所感で、三笠宮さまは「百合子に対して感謝の言葉も見付からない」、百合子さまは「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった」とつづった。
 「思ひきや白寿の君と共にありてかくも静けき日々送るとは」。14年1月の歌会始でこう詠んでいた百合子さま。16年10月、三笠宮さまが100歳で亡くなり、聖路加国際病院で最期を見届けた際、「宮さま」と連呼し、涙も見せていたという。その後は宮家の当主を務め、宮邸で静かな余生を送り、穏やかにこの世を去った。 

 

 ◇三笠宮妃百合子さまの歩み
1923年 6月 子爵・高木正得氏の次女として誕生
  41年    女子学習院本科を卒業
  41年10月 三笠宮さまと結婚
  45年 5月 宮邸が空襲で全焼
  48年 4月 恩賜財団母子愛育会総裁に就任
  56年 8月 ご夫妻でセイロン(現スリランカ)、イラン、イラク訪問(同10月帰国)
  57年    「ゆかり」の名で、三笠宮さまと句集「初雪」を出版
  63年 4月 ご夫妻でトルコを訪問(86年、93年を含め計3回訪問)
  79年 3月 民族衣裳文化普及協会名誉総裁に就任
2002年11月 三男の高円宮さま逝去(47歳)
  10年 3月 民族衣裳文化普及協会名誉総裁を退任
  10年 9月 恩賜財団母子愛育会総裁を退任
  11年10月 結婚70年
  12年 6月 長男の寛仁さま逝去(66歳)
  14年 6月 次男の桂宮さま逝去(66歳)
  16年10月 夫の三笠宮さまが逝去(100歳)
  22年12月 三笠宮さまの伝記刊行
  23年 6月 100歳に
  24年11月 逝去
[時事通信社]

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