2024-04-26 09:46スポーツ

空に帰ったジャンプの職人=「日の丸飛行隊」の巨星―笠谷幸生さん死去

 23日死去した笠谷幸生さんが、冬季競技の後発国だった日本に初めて金メダルをもたらしてから52年たった。
 1972年札幌五輪。宮の森競技場のジャンプ台から、2万4000人もの人垣を前に飛び出し、世界一美しいと言われた着地を、寸分の狂いもなく決めた。沈思黙考の職人が、この瞬間に見せた喜びの顔は忘れられない。
 当時28歳。選手寿命が今ほど長くなかった時代、円熟の境地にあったエースは後日、専門誌のインタビューで「とにかく長い間ジャンプをやってきて、いいことが一つあったというだけです。まあ、諦めずにやっていけば、何か一つくらいはいいことができるということではないですか」と、表彰台独占の偉業を控えめに語っていた。
 76年インスブルック五輪では振るわず、翌シーズンを前に引退。その後は全日本スキー連盟のジャンプヘッドコーチなどを務めた。
 口数は少ないが、研究熱心な理論派。日本ノルディック陣は、低迷期を経て複合団体で92年アルベールビル、94年リレハンメル両五輪連覇。ジャンプもリレハンメル五輪ラージヒル団体銀、98年長野五輪では船木和喜らが団体、個人を合わせ金2を含むメダル4個と躍進した。
 札幌五輪でコーチを務めた兄、昌生さんが2009年に他界し、気落ちしていた。10年バンクーバー五輪では日本選手団副団長だったが、スキー競技はメダルを取れず、一部選手の服装の乱れも問題に。
 帰国後、連盟の事務局職員に「(批判の)電話がたくさんあったようだね。迷惑をかけてすまなかった」。責任感が人一倍強く、こんな心遣いもする人だった。
 バンクーバー五輪前から体調に異変を感じ、飛行機での移動を嫌がっていた。帰国後の検査で病が判明。地元札幌で治療に耐えながら、関係者に「もう東京に行くことはない」と言い残していた。
 札幌五輪をともに彩った青地清二さんは08年に、金野昭次さんも19年に亡くなっている。世界中を驚嘆させ、日本列島を興奮に包んだ「日の丸飛行隊」の中心にいた巨星が、数え切れないほど舞った空に、帰っていった。
[時事通信社]

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