旧フランス領インドの都、今も残る植民地時代の影響
【プドゥチェリ(インド)AFP=時事】フランスがかつてインドから奪った領土を手放して70年。1月26日に迎えるインド共和国記念日(インド国憲法発布の日)を祝うため、フランスのエマニュエル・マクロン大統領はニューデリーを訪問した。≪写真は、旧フランス領インドの主都だったプドゥチェリで、浜辺に立つ警察官≫
旧フランス領インドの主都プドゥチェリでは言葉から建築、料理にまで、パリの影響の片りんがうかがえる。プドゥチェリは植民地時代にはポンディシェリと呼ばれていた。
二つの都は8000キロ以上離れているが、プドゥチェリでは色鮮やかなサリーを着た女性たちが今もフランス語で会話している。警官はフランス憲兵隊のようなケピ帽をかぶり、街角では青地に白抜きの文字で表示されたパリそっくりの道路標識を見かける。
プドゥチェリのフランスびいきの人々は、英領インド各地での残虐行為に比べ、フランスの植民地支配はましだったと口々に語る。
植民地下の裁判所に勤務していた元判事のダビド・アヌサミー氏(96)は、「ポンディシェリのインド人は、文化的にも法的にもフランス国民とされていた」と語った。「国籍とは肌の色ではなく、フランスを知ること、中でもフランス語を知ることだった」
■私たちが選んだ国
1742年、フランス東インド会社はスパイスなどインドの豊かな産品を利用するために、インド南東部にあるこの港町を貿易拠点として植民地化した。
英領インドの独立から7年後の1954年、フランスもインドから撤退したが、主権を完全に返還したのは1964年だった。
ポンディシェリと呼ばれたフランスの貿易拠点はプドゥチェリと改称され、飛び地の旧フランス領を統括する連邦直轄領の首府となった。
2011年の国勢調査によると、プドゥチェリ直轄領全体の人口は125万人で、ほとんどはタミル語を話す。
プドゥチェリ市内に今も住むフランス人はわずか5000人で、大半はフランス国籍を取得したインド人の子孫だ。
フランス国籍を誇りとしているアヌサミー氏は「パリ生まれでも、ポンディチェリ生まれでも、権利は同じだ」と流ちょうなフランス語で語った。好物は南仏プロバンス地方の郷土料理ブイヤベースだという。
フランス系インド人のファッションデザイナー、バッサンティ・マネ氏は、フランス軍に所属していた父親の白黒写真を見せてこう語った。「この国(フランス)は私たちが選んだ、私たちの国だ。私たちは外見はインド人でも、文化的にはフランス人で、それが特別なところだ」
■仏印友好のシンボル
マネ氏はフランスに関する話をいろいろ聞きながら育ち、「想像をめぐらせた」と語る。おじも第2次世界大戦中にフランス軍の一員としてアルジェリアで戦ったという。「私たちがフランスを恨んだことは一度もない」
英国の植民地だったインド各地の街が道路を改称したり、帝国指導者の銅像を取り壊したりして過去の遺産を消し去ろうとするのとは異なり、ここにはフランスの面影が残っている。
フランスの守護聖人ジャンヌ・ダルクの大理石像が立ち、コロニアル建築の邸宅が並ぶ旧フランス人居住区「ラビルブランシュ(白い町)」は観光客でにぎわっている。
ベーカリーを始めるためにフランスからやって来たサルア・サールさん(44)は「クロワッサン、バゲット、パン・オ・ショコラ、レモンタルト、チョコレートタルトが人気」だと語った。
もう一つ、フランスとの絆を示すシンボルとして、高さ13メートルのエッフェル塔のレプリカが間もなく披露される。
プドゥチェリのフランス人社会を代表する議員のシャンタル・サミュエルダビド氏は「ここにいる誰もが知っていて、世界中の誰もが分かる、仏印友好のシンボルを持とうというアイデア」だと語った。【翻訳編集AFPBBNews】
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