激動の1世紀生き抜く=三笠宮さま支え、最期に涙―孫、ひ孫の成長見守り・百合子さま
明治以降の皇室で最高齢だった三笠宮妃百合子さまが101歳で亡くなられた。18歳で皇室に入り、戦中、戦後と激動の時代を生き抜いた。3人のお子さまを亡くし、夫の三笠宮さまにも先立たれたが、笑顔を絶やさず、温かいまなざしで孫やひ孫の成長を見守り続けた。
◇防空壕で新婚生活
1923年、子爵・高木正得氏の次女として誕生した。高木家は旧河内丹南藩の藩主家で、母の邦子さんの実家である入江家は歌道の家柄。皇室入りのきっかけは、女子学習院本科卒業を控えた41年1月末、貞明皇后が住む当時の大宮御所で催された映画会だった。母の邦子さんらと参加し、三笠宮さまも鑑賞。2日後に結婚が決まり、「青天のへきれきのごとく、降って湧いたようなこと」と、三笠宮さまの伝記(2022年12月刊行)に収録された「オーラルヒストリー」で語っている。
新婚時代、太平洋戦争が生活に暗い影を落とした。45年5月、空襲で「青山東御殿」と呼ばれた当時の宮邸が全焼。コンクリート製の防空壕(ごう)で、三笠宮さま、1歳になったばかりの長女近衛※子さん(※ウカンムリに心、その下に用)(80)と暮らした。
45年8月14日には、宮家の防空壕に戦争継続を訴える陸軍の若手将校が訪れ、戦争終結を望む三笠宮さまと激論になった。「今にもピストルが飛び交うかと思うような緊迫したことで」「すごい怖い雰囲気であったことを覚えております」とオーラルヒストリーで振り返っている。
◇夜に写したノート
軍人として戦争の悲惨さを目の当たりにした三笠宮さまは戦後、歴史学者としての道を歩み、研究生として東京大に通った。公務で大学に行けなかった時、友人から借りたノートを百合子さまが写した。「夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう」。三笠宮さまは11年、結婚70年の所感でこう記した。
百合子さまは48年4月、恩賜財団母子愛育会総裁に就任。同総裁職は62年間務めた。この年の7月、百合子さまに不幸が襲った。父正得氏が遺書を残して失踪し、同年11月、奥多摩の山中で遺体で見つかった。
親王妃としての公務の傍ら、子育てに奮闘し、5人の子全員の育児日誌を記した。「やはり乳人(めのと)という制度が適当なのかと、危うくくじけそうになる」。51年、雑誌に寄稿した日誌には、育児の苦労など、生活感あふれる日々の暮らしがつづられている。57年には「ゆかり」の名で、三笠宮さまと句集「初雪」を出版した。
戦後は56年のセイロン(現スリランカ)をはじめ、三笠宮さまの外国訪問に同伴。トルコは3回訪れ、友好親善に寄与した。結婚70年の所感で、三笠宮さまは「百合子に対して感謝の言葉も見付からない」、百合子さまは「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった」とつづった。
「思ひきや白寿の君と共にありてかくも静けき日々送るとは」。14年1月の歌会始でこう詠んでいた百合子さま。16年10月、三笠宮さまが100歳で亡くなり、聖路加国際病院で最期を見届けた際、「宮さま」と連呼し、涙も見せていたという。その後は宮家の当主を務め、宮邸で静かな余生を送り、穏やかにこの世を去った。
[時事通信社]
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