次の100年も変わらぬ姿で=阪神・粟井球団社長に聞く―甲子園球場100年(4)
8月1日に開場100周年を迎える阪神甲子園球場。リニューアル工事に携わり、球場長も務めたプロ野球阪神の粟井一夫球団社長(59)がインタビューに応じ、「聖地」と呼ばれる甲子園の魅力や思い出などを語った。
◇ ◇ ◇
甲子園との最初の接点は幼少の頃。高校野球好きの祖父に連れられ、何度も球場に足を運んだ。1969年夏には引き分け再試合となった松山商(愛媛)―三沢(青森)の決勝も観戦したが、「野球の中身はあんまり分かっていなくて。ここに来て、おじいちゃんと一緒にカレーを食べ、アイスクリームを買ってもらう。それが楽しくてついて行った」と回想する。84年には母校の三国丘(大阪)が選抜大会に出場し、アルプス席から声援を送った。
88年4月に阪神電鉄に入社後、10年間は新規事業だったレストランに出向するなど、野球とは離れた部門で汗水を流した。「死に物狂いで、『どうやったら稼げるのか』と仕事をしていた」。その思いがあったから、本社に戻った時に球団の事業や球場の現状にがくぜんとした。「まだまだやれることがある。何でやっていないのか」
当時は阪神大震災の後でグループの経営状況も芳しくなかった。粟井氏はまず球場のチケット販売のシステム開発に着手。さらに場内飲食の物販や広告、スポンサーなどの事業面で奔走した。徐々に会社の経営にも余裕が生まれ、野球にお金をかけ、勝ってファンに喜んでもらうという機運が高まった。これが甲子園のリニューアルにもつながっていく。
◇歴史と伝統の継承を
完成から80年以上が経過し、老朽化が進んだ甲子園。粟井氏は2007年10月から3期にわたって実施された改修工事をリニューアル担当課長として先導した。改修を前に社内には銀傘の撤去やドーム球場への建て替えなど、さまざまな声が上がったという。
そんな中で目指すべき形が明確になったのが04年。米国視察時に大リーグのヤンキースに在籍していた松井秀喜選手と会う機会があり、「歴史のある球場は素晴らしい。できるだけ雰囲気を変えずに残してほしい。ちょっとぐらい不便でも我慢する」と言われた。その言葉にも後押しされ、「歴史と伝統の継承」を第一に、「安全性の向上」と「快適性の向上」をリニューアルのコンセプトに掲げ工事は進んだ。
09年からは球場長を務めた。在任中、印象に残ったのは11年、東日本大震災が発生した直後の選抜大会を甲子園で開催できたこと。全力プレーを言葉に込めた創志学園(岡山)の野山慎介主将の選手宣誓は大きな反響を呼んだ。「こんな時に野球をやっていいのかという空気を一変させてくれた。ああいう発信をしてくれた高校球児に感謝したい」
運営上の苦労も多くあった。10年夏は沖縄県勢初優勝が懸かる興南と東海大相模(神奈川)の決勝を控え、球場前は早朝から約7000人のファンでごった返した。粟井氏らはこのままでは事故が起きる可能性が高いと判断。開門時刻を大幅に早め、異例の早さとなる試合開始4時間前の午前9時に満員通知を出した。リスクを伴う判断ができるのも「歴史と伝統を継承しているから」。過去のオペレーションの記録が残っているからこそ、なせる業だ。
縁の深い粟井氏が考える甲子園の魅力とは。それは高校野球、プロ野球の両方で「ふるさと」を感じられる点だという。47都道府県から代表校が集い、日本の夏を彩る高校野球。「ふるさとを思う気持ちのベースになっていると思う。その戦いの場を提供できているのはうれしい」。プロ野球では、熱狂的なファンを多く抱える阪神の本拠地。関西にゆかりのある人にとって、甲子園はもはや生活や文化の一部といえる。「心のふるさと、よりどころみたいにしていただいているのでは。これを絶対につないでいかないと」と力を込める。
次の10年、そして100年へ。粟井氏は「高校野球の場、プロ野球の場としてあり続け、これを維持していくこと」と視線を先に向ける。今後目指すのは「日本一の野球場、日本一愛される球場、日本一を決める場としての球場」。聖地は威容を保ち、変わらぬ姿で熱戦を見届け続ける。
[時事通信社]
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