ムソリーニを「説け」=講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の書簡見つかる―幻の1940年東京五輪
戦争の影響でなくなった幻の1940年東京五輪は、アジア初の開催になるはずだった。その招致に尽力したのが講道館柔道の創始者で国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた嘉納治五郎。昨年秋、嘉納が招致実現に奔走した跡が伝わる新資料が東京都文京区の講道館で見つかった。
資料は嘉納が牛塚虎太郎東京市長に宛てた34年5月29日付の書簡の下書き20ページ。アテネで開かれたIOC総会を終えて、それまでの招致活動の経過と将来の見込みについて詳しく報告している。
40年五輪招致の強力なライバルだった都市はローマ。IOC委員を務めていた副島道正と杉村陽太郎が、立候補を取り下げてもらうためにイタリアの独裁者ムソリーニ首相と面会し、了承を得たことで東京の招致成功につながったとされるが、その内実はこれまで分かっていなかった。
嘉納を研究する筑波大の真田久特命教授によると、ムソリーニとの交渉は嘉納が33年に東京市の会議で出した「奇抜」な提案とみられていた。だが今回の書簡で、嘉納が孤立無援ではなく、IOC委員として培ってきた豊富な人脈を生かしたことが明らかになった。
フランスのIOC委員だったポリニャック侯爵から「先づ伊太利のムッソリーニを説き彼を敵に廻はさず日本に譲らしむる様努力することが得策」と助言され、同じくIOC委員でムソリーニと親交があった米国の軍人シェリルが仲介役を買って出てくれたことが書簡に記されている。斎藤実首相からの口添えも求めており、真田氏は「用意周到さが感じられる」と驚く。
さらに嘉納は、東京が欧州に比べて地理の面で不利なことを認めつつも「努力如何に依ては競争に勝つ見込も立ち、又武士は一度抜いた刀は目的を果さずに鞘に納めぬといふ日本精神に基き(中略)大努力することが必要と存候」と激励した。船やシベリア鉄道などで来日する選手たちの経費を日本が援助することなども訴えている。
東京五輪開催は36年7月のIOC総会で決まった。日中戦争が始まった翌年の38年5月に嘉納は77歳で死去。その約2カ月後に日本政府は五輪返上を閣議決定した。
嘉納の書簡は講道館柔道資料館で5日から展示される。
◇嘉納治五郎の略歴
嘉納治五郎(かのう・じごろう)1860年(万延元年)、兵庫県生まれ。日本古来の柔術を学び、独自の「柔道」を創始。82年に講道館を創設し初代館長に。「精力善用」「自他共栄」の理念を唱え、柔道を世界各国に広めた。高等師範学校、東京高等師範学校(現筑波大)の校長を長年務め、体育教育を推進。「体育の父」と呼ばれる。
1909年に日本初の国際オリンピック委員会(IOC)委員就任。11年に大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立し初代会長に。日本が初参加した12年ストックホルム五輪で団長を務めた。40年東京五輪招致に尽力。38年5月に77歳で死去。その約2カ月後に五輪返上が決まった。
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