2021-03-05 11:10

幕開け待つあづま球場=福島県スポーツ関係者に聞く―東日本大震災10年

 東京五輪で最初の実施競技は、開会式2日前の7月21日に福島県営あづま球場(福島市)で開催されるソフトボールの日本―オーストラリア戦。球場管理に携わる同県都市公園・緑化協会の高橋政人さん(42)は「着任して1年たつか、たたないかの時期に開催が決まった。ついているんじゃないかと思った」と当時を振り返る。
 10年前の3月11日が人生の転機になった。当時は住宅メーカー社員で、青森県八戸市で被災。「お客さんの家の点検中で、子供を抱えて逃げた。津波が来て、食料を求めて右往左往した」と記憶をたどる。「人の役に立ちたい」と希望し、震災復興に携わる福島県の職員に転身。建物の耐震補強調査などに関わった。街灯がなく闇に覆われた現場を歩き、人影のない高校では震災発生時刻の午後2時46分で止まった時計を目にしたことが印象に残っている。
 現在はあづま総合運動公園事務所で、五輪に備え人工芝に張り替えられた球場や、震災時に避難所となったあづま総合体育館の管理を担う。ボクシングで高校総体出場経験を持つ高橋さんは、五輪を楽しみにしてきたスポーツ好きの一人。「開催されたから復興が終わったとは決して思わない。本当に今でいいのかな、という思いもある」と率直に語る一方、「五輪の映像を見て、あの時に避難したところだね、という人もいるのかな」。さまざまな思いが巡る。
 「復興五輪と言うなら、もっと福島の声を聞いてくれるのかなという思いがあった」。失望感を口にするのはNPO法人うつくしまスポーツルーターズ(福島市)の斎藤道子事務局長(57)だ。2005年設立のスポーツボランティア団体。女子サッカーやスキーなど県内のスポーツ大会に携わり、会員は約500人いる。斎藤さん自身は東京五輪・パラリンピック組織委員会からボランティア研修の講師を任され、大会中はあづま球場でボランティアに加わる。
 「福島の人は決して暗い顔で生活しているわけではない。これほど注目される機会はないからチャンス」と考える斎藤さん。五輪開催を前にさまざまなイベントを関係機関に持ち掛けたが、大会スポンサーの権利保護を理由に認められなかった。「2020という言葉が入っていたら駄目。最もリスペクトされるのはスポンサー。福島の草の根から入り込む余地はない」。五輪の商業主義を痛いほど感じた。
 斎藤さんには「スポーツは人の心を動かす」との信念がある。原爆投下と終戦から30年たった1975年当時は広島県に住む小学6年生で、プロ野球広島カープが初優勝を遂げた歓喜の輪の中にいた。「被爆者として差別もされて自信が持てなかった老若男女が『自分たちはやれる』みたいに。その経験はすごく大きい」。地域によって復興の度合いに差がある今の福島と状況は違う。それでも、「みんなの心が一つになる瞬間の高揚感を味わえれば違うかな」との期待もある。
 福島県内では、復興支援への感謝を伝えたいとの思いで東京五輪のボランティアを志す人が多いという。斎藤さんたちは、東京パラリンピック閉幕日の9月5日に、Jヴィレッジでボランティアが集う交流イベントを開く計画だ。