2020-11-27 08:32
「記憶に残る選手村に」=川淵三郎村長インタビュー―東京五輪・パラ
来夏の東京五輪・パラリンピック開催時に、各国・地域の選手団が滞在する選手村(東京都中央区)で村長を務める川淵三郎氏(83)がインタビューに応じた。新型コロナウイルスの影響で1年延期となった大会に向け、「選手や関係者の記憶に残る選手村にしたい気持ちがすごく強い」と抱負を語った。
14〜18階建ての宿泊施設21棟に五輪時で1万8000ベッドを備える大規模な選手拠点。Jリーグ初代チェアマンや日本サッカー協会、日本バスケットボール協会の会長など要職を務めてきたが、「これまでと全く違った役割」と気を引き締め、「人生最後の大役」と言い切る。
24時間稼働の食堂やフィットネスセンターも置かれる選手村での優先課題は感染対策。「感染者ゼロが望ましいけど、分からない。ある程度は出るものと覚悟して、どう対応するかさえしっかりしておけば安心できる。最悪の場合でも、選手村全体に影響を与えないようなことはできる」と強調した。
◇無観客は無意味
川淵氏は1964年東京五輪にサッカー日本代表として出場し、アルゼンチン戦でゴールを決めるなど8強入りに貢献した。「五輪に出ることが夢だった。開会式は一生の中でも大きな感動のシーン。大歓声と行進曲を聞いただけで本当に胸が高まった」。長いスポーツ人生の中で「あれほど心臓がおかしくなるくらいの感動はなかった」だけに、大会簡素化をめぐる議論には一家言がある。
「観客が一人もいない五輪の開催は無意味。可能な限り、海外からの観客を入れるべきだと思う。最悪の場合は日本の観客だけでもいいのではないか」。開会式の参加選手削減が検討されていることは理解しながらも、「同じ場所にいることの価値は絶対あると思う」。
コロナ禍の収束が見通せない国内で、東京大会への機運がいまひとつだと気に掛けている。「ネガティブな雰囲気がまん延しているけど、いざ始まったら日本中が盛り上がることは間違いない。開催するという気持ちを日本人の皆さんが持ってほしい」。そう願っている。
◇川淵氏の略歴
川淵 三郎(かわぶち・さぶろう) 大阪・三国丘高から早大、古河電工と進み、サッカー日本代表として活躍。現役引退後は代表監督などを経て91年にJリーグの初代チェアマンに就任。02年〜08年には日本サッカー協会会長を務め、現在は相談役。バスケットボール界の改革にも携わり、日本協会会長やBリーグチェアマンも歴任。日本トップリーグ連携機構会長も務める。大阪府出身。
14〜18階建ての宿泊施設21棟に五輪時で1万8000ベッドを備える大規模な選手拠点。Jリーグ初代チェアマンや日本サッカー協会、日本バスケットボール協会の会長など要職を務めてきたが、「これまでと全く違った役割」と気を引き締め、「人生最後の大役」と言い切る。
24時間稼働の食堂やフィットネスセンターも置かれる選手村での優先課題は感染対策。「感染者ゼロが望ましいけど、分からない。ある程度は出るものと覚悟して、どう対応するかさえしっかりしておけば安心できる。最悪の場合でも、選手村全体に影響を与えないようなことはできる」と強調した。
◇無観客は無意味
川淵氏は1964年東京五輪にサッカー日本代表として出場し、アルゼンチン戦でゴールを決めるなど8強入りに貢献した。「五輪に出ることが夢だった。開会式は一生の中でも大きな感動のシーン。大歓声と行進曲を聞いただけで本当に胸が高まった」。長いスポーツ人生の中で「あれほど心臓がおかしくなるくらいの感動はなかった」だけに、大会簡素化をめぐる議論には一家言がある。
「観客が一人もいない五輪の開催は無意味。可能な限り、海外からの観客を入れるべきだと思う。最悪の場合は日本の観客だけでもいいのではないか」。開会式の参加選手削減が検討されていることは理解しながらも、「同じ場所にいることの価値は絶対あると思う」。
コロナ禍の収束が見通せない国内で、東京大会への機運がいまひとつだと気に掛けている。「ネガティブな雰囲気がまん延しているけど、いざ始まったら日本中が盛り上がることは間違いない。開催するという気持ちを日本人の皆さんが持ってほしい」。そう願っている。
◇川淵氏の略歴
川淵 三郎(かわぶち・さぶろう) 大阪・三国丘高から早大、古河電工と進み、サッカー日本代表として活躍。現役引退後は代表監督などを経て91年にJリーグの初代チェアマンに就任。02年〜08年には日本サッカー協会会長を務め、現在は相談役。バスケットボール界の改革にも携わり、日本協会会長やBリーグチェアマンも歴任。日本トップリーグ連携機構会長も務める。大阪府出身。