2021-08-21 20:10
半世紀の発展に感慨=64年東京大会、準備に奔走―元選手団長の井手さん〔パラリンピック〕
1964年東京パラリンピックの準備、運営に厚生省(現厚生労働省)職員として携わった井手精一郎さん(96)=横浜市在住=が時事通信の単独インタビューに応じた。24日に開幕が迫った2度目の東京大会を前に、「コロナ禍ではあるが、皆さんにぜひ見ていただきたい。(この半世紀で)日本の障害者スポーツは期待通りに発展してきた」と語った。
井手さんが64年大会の担当となったのは同年4月。開幕まで7カ月に迫っていた。当時の大会名称は「国際ストークマンデビル競技大会」で、認知度が著しく低い時代。「世の中の人はいったい何をやる大会か知らない。お金が足りなかった。募金活動で4800万円集めた」。直前に行われた東京五輪の選手村を障害者向けに改修する必要があったが、資金不足で「トイレの扉を外してカーテンにしたり、高い所にあった食堂までスロープを付けたり」した程度。「厚生省や出先機関などの若手にボランティアで働いてもらった。弁当も出せなかった」と振り返る。
開幕しても、国民の関心は芳しくなかった。「試合を見に来たのは選手の家族、リハビリ関係の医者がほとんど。障害者のスポーツは見向きもされなかった」。しかし国際大会としての成功を収めて評価が高まると、世間の認識が大きく変わった。翌年、全国身体障害者スポーツ大会(現在の全国障害者スポーツ大会の前身)が始まり、障害者スポーツセンターの整備が全国に広がった。井手さんは64年大会の意義を、「障害者同士の交流が広がり、全く空気が違ってきた」ことと捉える。
92年バルセロナ・パラリンピックなどで日本選手団長を務め、障害者スポーツ発展に尽くしてきた井手さん。東京大会から57年後の今夏、新型コロナウイルスの感染対策を施しながらの開催となったことには、大きな懸念を持っている。「障害を抱える選手は、他にも持病があることが多い。特に脊髄損傷の人には危険。徹底的な感染防止対策が必要だ」。それでも、1年の延期を経て、ようやく開催される東京大会。「今の競技は見ていて面白くなった。車いすラグビーでは選手同士が激しくぶつかって転倒する。国民の関心が(昔とは)全然違うでしょう」。運営の先達だった井手さんは、一ファンの立場で大会の成功に期待する。
◇井手精一郎さんの略歴
井手 精一郎さん(いて・せいいちろう)64年に厚生省社会局更生課課長補佐として東京パラリンピックを担当。81年から日本身体障害者スポーツ協会(現日本障がい者スポーツ協会)常務理事を務めた。96歳。横浜市在住。
井手さんが64年大会の担当となったのは同年4月。開幕まで7カ月に迫っていた。当時の大会名称は「国際ストークマンデビル競技大会」で、認知度が著しく低い時代。「世の中の人はいったい何をやる大会か知らない。お金が足りなかった。募金活動で4800万円集めた」。直前に行われた東京五輪の選手村を障害者向けに改修する必要があったが、資金不足で「トイレの扉を外してカーテンにしたり、高い所にあった食堂までスロープを付けたり」した程度。「厚生省や出先機関などの若手にボランティアで働いてもらった。弁当も出せなかった」と振り返る。
開幕しても、国民の関心は芳しくなかった。「試合を見に来たのは選手の家族、リハビリ関係の医者がほとんど。障害者のスポーツは見向きもされなかった」。しかし国際大会としての成功を収めて評価が高まると、世間の認識が大きく変わった。翌年、全国身体障害者スポーツ大会(現在の全国障害者スポーツ大会の前身)が始まり、障害者スポーツセンターの整備が全国に広がった。井手さんは64年大会の意義を、「障害者同士の交流が広がり、全く空気が違ってきた」ことと捉える。
92年バルセロナ・パラリンピックなどで日本選手団長を務め、障害者スポーツ発展に尽くしてきた井手さん。東京大会から57年後の今夏、新型コロナウイルスの感染対策を施しながらの開催となったことには、大きな懸念を持っている。「障害を抱える選手は、他にも持病があることが多い。特に脊髄損傷の人には危険。徹底的な感染防止対策が必要だ」。それでも、1年の延期を経て、ようやく開催される東京大会。「今の競技は見ていて面白くなった。車いすラグビーでは選手同士が激しくぶつかって転倒する。国民の関心が(昔とは)全然違うでしょう」。運営の先達だった井手さんは、一ファンの立場で大会の成功に期待する。
◇井手精一郎さんの略歴
井手 精一郎さん(いて・せいいちろう)64年に厚生省社会局更生課課長補佐として東京パラリンピックを担当。81年から日本身体障害者スポーツ協会(現日本障がい者スポーツ協会)常務理事を務めた。96歳。横浜市在住。