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大転換の時代だった=皇位継承

2019-04-30 15:25

24時間戦えますか―。このドリンク剤CMのキャッチコピーが一世を風靡(ふうび)したのは、平成元年の1989年だった。当時、まだバブル景気のさなかにあった日本社会は、高度経済成長期以来、日本経済を支え続けた「企業戦士」の労働意欲を駆り立てることをよしとする空気が支配していた。平成は昭和の繁栄を引き継ぐ形で幕開けしたのだった。しかし、それからの30年は、日本にとって大きな転換の時代となった。
平成最初の年末、日経平均株価は過去最高の3万8915円87銭を記録。だが、これをピークに90年以降株価は急落すると91年にはバブル崩壊が決定的となり、不良債権問題の拡大によって97年の金融危機に直面した。
バブル崩壊以降の経済混乱は、政治の不作為にも大きな責任があった。平成幕開け直後の89年6月に、前年発覚したリクルート事件で竹下登首相が退陣した後、「政治とカネ」の問題が最大の政治課題としてクローズアップされ、93年に細川政権発足で「55年体制」は崩壊。その後、衆院小選挙区比例代表並立制と政党交付金制度の導入が実現した。
しかし、当時の細川政権の関係者は「この間、政治は昭和の金権政治の後始末に翻弄(ほんろう)され、不良債権問題への対応は不十分だった」と反省を込めて述懐する。
不良債権問題は2001年に「聖域なき構造改革」を掲げて発足した小泉政権が「金融再生プログラム」を策定して抜本的処理を行い、政権終盤の05年に終結宣言するに至った。
当時の小泉純一郎首相が進めた改革路線は市場原理を優先する新自由主義的な色彩が強かったため、「弱者切り捨て」との批判も浴びたが、それでも5年5カ月間の長期政権を維持した。昭和時代に築かれた既存システムに限界を感じていた国民の心情とマッチしたのだろう。
小泉改革の背景には米国の強い対日圧力もあった。冷戦終結後、米国は対日貿易赤字の解消のため、日本に対して規制緩和や市場開放を強く迫った。一方で、米国は日本をソ連封じ込めに向けた軍事拠点と位置付けていたが、冷戦終結を受け、日本には役割分担を求める姿勢を鮮明にした。
これを受けて97年に朝鮮半島有事に対応するための日米防衛協力の指針(ガイドライン)が改定され、15年の再改定と安全保障法制の制定によって、自衛隊と米軍の役割分担は一段と明確になった。ポスト冷戦期と重なった平成の時代、日本は昭和期以上に米国の世界戦略に深く組み込まれることになった。安保法制や米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設問題をめぐる安倍政権の強引とも言える手法は、日米同盟深化の裏返しのように見える。
ただ、安保や憲法の問題では、冷戦崩壊によって革新勢力が弱体化した平成の時代も、55年体制時代の二項対立の構図が浮かび上がった。また、「少子高齢化」問題のような、将来の社会保障における「給付と負担」に直結する中長期的テーマについても、党派を超えて合意形成を図ろうとする政治風土は醸成されなかった。こうした不毛な政治の状況は、令和の時代に乗り越えるべき課題として残ったと言える。
確かに、昭和が敗戦から復興を遂げた激動の時代だったのに対し、平成は戦争がなかったことは何よりのことだった。ただ、それをもって平成を「平和」の二文字で総括してしまうには、あまりに多くのことが目まぐるしく転換した。名目GDP(国内総生産)や企業の時価総額の世界各国との比較でも、平成の時代に大きく後退し、経済大国の地位も揺らいでいる。
新元号の令和を国民が好意的に受け止めていることは、平成時代の閉塞(へいそく)感を打ち破りたいという願望の表れだろう。そうであったとしても、根拠の希薄な楽観論に陥らないため、まずは平成をしっかりと検証することから始めたい。(時事通信解説委員長・山田惠資)。
[時事通信社]

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