2023-03-20 19:05World eye

多くの惨禍と将来へのかすかな希望  イラク戦争開戦20年

【バグダッド(イラク) AFP=時事】イラクのサダム・フセイン政権崩壊につながった、米主導のイラク戦争開戦から20日で20年。戦争で疲弊した国民は、フセイン政権下の独裁のつらい記憶や数年に及ぶ暴力的な混乱について振り返った。≪写真はイラク・バグダッドで、サダム・フセイン政権崩壊翌日に米海兵隊員と握手するイラク人男性≫
 AFPの取材に応じた人々は、爆発や銃撃、流血事件で失われたトラウマのような子ども時代や、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の恐怖について語った。国家の再建に向けた兆しを語る人もいたが、将来に向けて楽観的な意見はほとんど聞かれなかった。
 ■おびえていた子ども時代
 ズルフォカル・ハッサンさん(22)は、首都バグダッドのワシャシュ地区での米軍のイスラム教シーア派民兵を狙った作戦で市民14人が死亡した2007年9月6日の戦闘について語った。
 まだ7歳だったハッサンさんと母親は、ヘリコプターや戦車を投入した米軍の作戦を受け、トイレに隠れられるよう真夜中に起き出した。「周りの家々は倒壊した」と当時を回想した。
 酷暑の夏に家族が寝室代わりに利用していた屋上のテラスに上がったところ、「爆発物の破片が落ちていて、マットは焼け焦げていた」という。
 市街戦や自動車爆弾、路上に散乱する遺体という光景が日常の中で育った同じ世代の人たちと同じように、ハッサンさんは淡々とした口調で言葉を継いだ。
 「子ども時代はずっとおびえていた。夜中にトイレに行くのが怖く、誰も部屋で一人で眠れなかった」
 ハッサンさんは2019年、失政や汚職、インフラの劣化、失業に抗議する若者主導のデモに身を投じた。だが、「参加するのをやめた。希望を持ち続けることができなかった。自分のような若者たちが死んでいくのを目の当たりにしたが、われわれは孤立無援だった」と話した。
 デモ弾圧では数百人の命が失われた。「亡くなった者たちは、成果や変化も得られずに犠牲になっただけだった」
 幻滅した他のイラク国民の多くが海外に移り住んだが、ハッサンさんは移住を考えていない。さもなければ、「取り残されてしまった人はどうすればいいのか」と訴えた。
 ■「怖がっていては何も実現できない」
 人権活動家でフェミニストのハナー・エドウアルドさん(77)は、数十年にわたってイラクに民主主義を根付かせようと闘ってきた。キリスト教徒で共産主義の元活動家であるエドウアルドさんは、フセイン政権に反対したため、東西分断下のドイツの東ベルリンやシリアの首都ダマスカス、イラク北部のクルド人居住地域の険しい山岳地帯での亡命生活を余儀なくされてきた。
 2003年3月の米軍によるイラク侵攻のすぐ後にバグダッドに戻った際、最初は「夢」のようだったと、エドウアルドさんは回顧した。
 しかし、長年経済制裁で苦しめられてきたイラクが占領されて米軍の装甲車両が街中を走り回るのを見たエドウアルドさんは、すぐに幻滅させられた。
 活動家や当局者の拉致や脅迫、殺害が日常的に起きていたイラクで、宗派間抗争の予兆が感じられる中、エドウアルドさんは自らが1990年代に創設したNGO「アマル」で働き続けた。
 「人権を重視する独立した市民社会や民主的なイラクの建設」というアマルの目標は今も昔も変わらないという。国会での女性議員数の割り当てを実現したのは、「歴史的な瞬間だった」と誇らしげに振り返った。
 2011年の映像は、怖いもの知らずのエドウアルドさんの勇敢さを証明している。当時のヌーリ・マリキ首相に対して、拘束された4人のデモ参加者を釈放するよう要求して声を張り上げていた。マリキ氏の隣で冷静になるよう求めているのが、現首相であるムハンマド・スダニ氏だ。
 「怖がっていては何も実現できない」とエドウアルドさん。現在のイラクは「課題が山積」しており、既存政党は権力の座にとどまることが目的になっていると語気を強めた。
 ■政治的な「レッドライン」
 アラン・ザンガナさん(32)は2003年、米軍がバグダッドに入城するのを家族と一緒に住んでいた北部のクルド人自治区で見ていた。
 「事態の推移を見守るため、夜明け前まで起きていた」
 ザンガナさんはその数週間後、世界にニュースを伝える報道陣が見守る中、フセイン像が米軍兵士によって引き倒されるのを驚きをもって目撃することになったと話した。
 「像が2003年4月9日に倒れた際、私たちは(フセイン政権崩壊が)現実に起こったのだと認識した」
 ここ3年間、ザンガナさんは時事問題や歴史に関するポッドキャストを制作し、「言論の自由」の境界を押し広げてきた。
ザンガナさんは「イラクのエリートたちは過去20年間に起きたことを恐れて閉じこもっている。これらの人たちは友達が死んだり、脅迫されたりしたのを目の当たりにしてきた」という。
 ザンガナさん宅を訪れていたイラク人は、政治や歴史ある豊かな文化、困難な状況下にある経済をめぐって意見を交わしていたが、2人は危険を避けるために発言には注意しなければならない。ザンガナさんは「なおもレッドラインは多くある。健全なことではない」と話した。
 ■「つらい混乱」
 3人の子どもを持つサウド・ジャウハリさん(53)は、1980~88年のイラン・イラク戦争が続く中で育ち、アマチュアのサイクリングクラブを主宰することで、女性や子どもたちがより多くの喜びを得られる機会をつくろうとしてきた。
 「戦争の最中に子ども時代を過ごしてきた」とジャウハリさん。「私たちは楽しむこともできず、多くのものを奪われてきた」という。
 少数民族クルド人のシーア派として、家族の友人や隣人たちがフセイン政権による反体制派弾圧が最も激しかった時に国外追放になった当時の状況を記憶している。
 いとこが投獄された際、おばは悲嘆に暮れて亡くなったと記憶の糸をたぐった。
 ジャウハリさんは、家族が安全のために避難していたイランでフセイン政権の崩壊を見届けた。
 2009年に母国に帰国。「永久的な亡命生活はつらすぎる」との思いから、暴力が続く中でも「どのような状況だろうと」イラクにとどまることを決意した。
 ISが打倒された17年、イラク社会の保守的な慣習に挑戦する形で街頭で初めて自転車に乗った。
 ジャウハリさんは「社会からの視線が怖かった」と、女性が屋外で運動するのは不適切と考える人たちの存在に話を向けた。
 それでも挑戦し続けてサイクリングクラブを立ち上げ、悲惨な状況の中でも彼女のような人々に少しでも喜びを届けようとした。
 「私たちの人生は20年間に及ぶつらい混乱に終始してきたが、時間を取り戻すことはできない」と訴える。
 だが、ジャウハリさんは戦禍に苦しんできたイラク人としては、前向きとも言えるようなことを口にした。「これまでに経験してきた以上に悪いことはもう起きないはずだ」【翻訳編集AFPBBNews】

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