2022-09-28 15:24スポーツ

「馬淵家」の志、日本の夢に=人生決めた寺内との出会い―水泳飛び込み・日中国交正常化50周年

 飛び込み界の名伯楽、馬淵崇英さん(58)が、蘇薇という中国名で20代半ばの青年だった1989年。東京・国立代々木競技場にあった水泳場で衝撃を受けた。
 大会に臨む日本のジュニアトップ選手に落胆したのだ。飛び込み大国、中国でナショナルコーチの就任話が持ち上がるほど、既に確かな目があった。それだけに、準備運動の様子でさえ「近代的」な自国と比べると「ただやっているだけ」に映った。
 「自分の選手を五輪に」という夢を目指す前に、「外を見ないと」と考えて88年に来日。中国の改革開放政策に基づき、留学を選ぶ周囲の若者に触発され、「言葉を覚えて、最低でも大学を卒業して帰る」という人生設計を立てた。
 だから、当時の日本の現状に戸惑いつつ、当初は人ごと。考えを改めたのはJSS宝塚(兵庫県宝塚市)のコーチ、馬淵かの子さん(84)と出会ったからだ。
 かの子さんは、現役だった74年アジア大会の女子板飛び込みで連覇を目指したが、3位に終わった。上位2人は、台湾問題を背景に長く国際主要大会に出てこなかった中国勢。引退の花道と考えた舞台での苦い経験が、崇英さんを熱心に勧誘する原動力になった。
 崇英さんは留学先の大学、住居の確保などの支援を受けてコーチ業を始めた。最初は日本選手の育成に自信を持てず、楽しみも見いだせなかったものの、寺内健(ミキハウス)と巡り合うと一変。飛び込みを体験する姿を見るなり、姿勢や動きが「近代的。イメージにぴったり合う」。人生を懸けることを決めた。
 当時の寺内は、競技を始めるにはやや遅い小学5年生。目の色を変えて中国式の技術をたたき込んだ。遠征で海外同行の機会が増えると、手続きを簡素にするため、日本国籍を取得。96年アトランタ大会から6度五輪に出場する選手に育てた。
 日本飛び込み界に幻滅したあの日から33年。今夏行われた世界選手権で、教え子が母国の一角を崩す瞬間が訪れた。高校1年の玉井陸斗(JSS宝塚)が男子高飛び込みで銀メダルを獲得。金と銅メダルの中国勢に割って入った。「回転、スピード、形は中国を超えるほどになる」と評する逸材を、「未来的」と言うほどほれ込む。
 崇英さんは、かの子さんを日本の母と慕う。「馬淵という名を飛び込みのブランドに」との願いを込めて同姓にした。中国名の響きに合う漢字を提案したのは、かの子さん。中国語の勉強は現在も続けているという。2人の絆はもはや親子だ。
 中国にとどまっていたら、もっと早く夢を実現できたかもしれないが、崇英さんは迷わず「日本で育てた方が価値が高い」と言って笑った。困難な状況でも粘り強く取り組み続けたからこそ、異国で長年強化の中核を託される地位を築いた。 
[時事通信社]

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